すずらんの咲くころに

はじめに

 鏡の中のシャーロットの話は不思議なお話である。作中において「誰が何をしたか」については単純に思えるが、素直に物語を追うだけでは明らかではない部分も多い。とりわけ、シャーロットの正体、つまり、シャルロットにとってシャーロットがどのような存在であったのか、シャーロットの目的が何だったのか、などについては作中では明言されていない。そこで本記事では、シャーロットの正体、ひいては物語全体の解釈やテーマ性について考察したいと思う。

素直な解釈とその疑問点

イマジナリーフレンド説

 シャーロットの正体に関して、最も素直な解釈は「実母の死のショックをきっかけに生まれたイマジナリーフレンド、あるいは別人格である」というものだろう。シャルロット視点では、シャーロットは自分とは別の人間として映っているが、ウェンズデイやフライデイ視点では、シャルロットとシャーロットが一緒にいる場面においても”一人”として映っている。その際、シャーロットは、初登場時の「私も、シャルロット」「私は、あなた(シャルロット)の前でだけ、シャーロットと名乗ることにするわ」のセリフの通り、ウェンズデイたちに対してはシャルロットとして受け答えしている。この意味で、シャーロットはシャルロットのイマジナリーフレンド(本人にのみ認識できる友達)または別人格と言えるだろう。また、シャーロットが、シャルロットの前から姿を消す直前を含め複数回母親に関して言及していることなどから、何らかの形で母親と関係する存在、例えば母親の死がきっかけで生まれた、等と解釈するのが妥当ではあるだろう。

疑問点

 上記の解釈にはいくつか、矛盾点とまでは言えないまでも、疑問点が残るように思う。その中でも、特に注目すべき疑問を二つ示そう。一つ目は「あなたは私」というセリフの解釈について、二つ目はユニットのモチーフであるプリンセスについてである。

「あなたは私よ」

 シャーロットが初めて登場した際、シャルロットと以下のような会話を行っている。

シャルロット「あなた、だれ?」

シャーロット「あなたは私よ」

*1

「あなた(=シャーロット)は」と尋ねられているのに「あなた(=シャルロット)は私」と主従の逆転した回答となっている...のはさておき、イマジナリーフレンドが本体との同一性を主張するのは少々不自然に感じる。そもそもイマジナリーフレンドは、通常は自分の中に自分以外の存在が必要だからこそ生み出されるものだろう。にもかかわらず、シャルロットと同じ名前を名乗り、同じ存在であると言い出している。シャーロットは、シャルロットにのみシャルロットとは別人として認識され、周りの人間からはシャルロット自身として認識されている、という意味ではイマジナリーフレンドであることは間違いないと思われるが、通常の「自分自身(の一部)を、自分以外の存在とみなすことで生じた存在」としてのイマジナリーフレンドではないのではないだろうか。

 

プリンセスはどこ?

 二つ目の疑問は、『鏡の中のシャーロット』におけるプリンセス要素はどこへ行ったのか、という話である。前提として、CharlotteCharlotteはプリンセス(お姫様)をコンセプトとしたユニットである。まず表題曲『だってあなたはプリンセス』はタイトルと歌詞にプリンセスという単語が登場する。同楽曲のゲーム内イベントコミュにおいては、「お姫様」をコンセプトとしたユニットを結成し、「お姫様講座」を受けていく話となっている。ユニット・グループ紹介においては「双子のお姫様デュオ」として紹介されている。このように、様々な部分で「プリンセス」「お姫様」というコンセプトを強調しているにもかかわらず、ドラマCD『鏡の中のシャーロット』においては、一見するとプリンセスは登場しない。プリンセスという言葉は原義では(大雑把に言えば)「王様の娘」または「王子様の配偶者」を指すが、シャルロットをはじめとする登場人物の中にそのような立場の人間はいない。CDドラマだけはユニットコンセプトとはかけ離れた内容だと捉えるべきだろうか?

本題

 以下では、二つ目の疑問に対する考察を起点として、本題となる解釈を述べよう。

シャルロットのプリンセス願望

 実は、『鏡の中のシャーロット』において、プリンセス”らしき存在”が一瞬顔をのぞかせるシーンがある。シャルロットが寄宿学校へ行く話が出たシーンである。

シャルロット

「ダメよ...。この本にも、この本にも書いてあるわ!

寄宿学校には、恐ろしい先生や厳格な寮長、

それに、意地悪ないじめっ子が大勢いるんですって!」

*2

当然のことながら、辞書や学校案内などの本に、上記のような寄宿学校の説明が記されているとは考えづらい。ここでシャルロットが持ち出している「本」は、例えばバーネット夫人の『小公女(原題:A Little Princess)』のような、児童文学や絵本の類であろう。この「本」の主人公、寄宿学校でいじめられている存在こそが「プリンセス」ではないだろうか。このように仮定すると、上記のシーンは「シャルロットが、物語の主人公としてのプリンセスと自分自身を同一視しようとしている」場面と解釈できる。つまり、『鏡の中のシャーロット』は、「お伽噺のプリンセスに憧れる少女の話」とみなせる。

 シャルロットは病弱でほとんど外へ出ることのできない境遇であり、家庭環境や中世ヨーロッパ風の時代背景も踏まえると、彼女にとって読書が数少ない娯楽であったことは想像に難くない。シャーロットと初めて邂逅したときに、真っ先に「好きな本」を尋ねていることからも、それは伺える。屋敷の外の世界をほとんど知らない少女が、本の世界を現実よりも身近に感じ、そこに登場するプリンセスに憧れ自らを同一視したとしても、なんらおかしなことはあるまい。

実母生存説

 シャルロットが自身をプリンセスと重ねてみようとしていると考えると、一つ気づくことがある。そもそも実母が亡くなって義母に虐められているという境遇が、例えばシンデレラのような、典型的なプリンセスのものに思える、ということである。すなわち、彼女の「実母が亡くなり義母に虐められている」という境遇はシャルロットの妄想、あるいはおままごとの設定に過ぎず、四条貴音演じる”義母”が本当は実母なのではないか、という仮説を立てることができる。

 実は、作中におけるタカネ*3さんに関する言及の中で、彼女が「シャルロットの義母」あるいは「旦那様の後妻」であるとする発言は存在しない。シャルロットに「亡くなられたお母さま」が存在することを示す発言から、「お母さま」と呼ばれるが生存しているタカネさん*4は義母なのだろうと思われているに過ぎない。そして、この「亡くなられたお母さま」に関する言及は、作中において三度しかない。仮説の検証のため、これらのシーンについて一つ一つ見ていこう。

屋根裏部屋の独り言~シャーロットの初登場シーン

 まず一つ目のシーンは、屋根裏の物置部屋の独り言である。

「それに私、この鏡がお気に入りなの。

亡くなったお母さまが使ってらした、大きな姿見の鏡。」

*5

このすぐ後のセリフでも以下のように言っている。

「まあ!野バラの柄のティーセットだわ!とっても素敵。もしもお母さまが生きてらしたら、きっとこのティーセットでお茶会をしましょうと仰ったわね。」

*6

この場面はあくまでもシャルロットの独り言であり、彼女の「鏡の前のおままごと」の設定であると考えても矛盾はない。

シャルロットとシャーロットが「聖母様の似顔絵」について語るシーン

 二つ目のシーンは、ウェンズデイ先生・フライデイ先生の授業の後、シャーロットが聖母様の絵を描いているシーンである。

シャーロット「ねえ、シャルロット。この聖母様のお顔、どこか、懐かしく感じないかしら。」

シャルロット「シャーロットの言っていること、なんとなくわかる気がするわ。亡くなられたお母さまが、こんなお顔をしていらした気がする。」

シャーロット「シャルロット、お母さまのお顔、覚えている?」

シャルロット「ううん、あまり覚えていないの。けど、とてもお優しかったことだけは覚えているわ。私の髪をなでる手が、暖かかったことも。」

シャーロット「そう。それを覚えているのなら、きっと大丈夫ね。」

*7

 このシーンはシャルロットとシャーロットの二人の会話であり、シャーロットがシャルロットの"設定"を共有していると考えれば、このシーンも仮説との矛盾はないと言える。

 もう一つ、上記のシーンはシャーロットの存在理由が垣間見えるという意味でも重要なシーンである。シャルロットが、「"亡くなられたお母さま"は、存命の"お母さま"(義母)とは別人である」と(現実に反して)思い込もうとしている場合、"亡くなられたお母さま"は当然、存命の"お母さま"と同じ顔をしているはずであるが、それを認識してしまうことは自らの設定を否定することにつながる。ゆえにシャルロットは"亡くなられたお母さま"の顔を思い出すことはできないのである。一方で、その後の「とてもお優しかったことだけは覚えている」というセリフは、「タカネさんが本当は(意地悪な義母などではなく)優しいお母さまであることを完全に忘れたわけではない」という意味とも取れる。これを踏まえて、シャーロットの目的が「シャルロットに"優しかった母親=タカネさん"であることを思い出させる」ことだと考えると、上記の会話、並びに以下に示す別れ際のセリフの意味が理解しやすくなる。

「シャルロット。お母さまのお顔は、思い出せた?」

*8

いずれのシーンにおいても、シャーロットは「お母さま」とだけ呼んでおり、「"亡くなられた"お母さま」等とは一度も口にしていないことも添えておこう。

タカネさんが「野バラの柄のティーセット」を贈るシーン

 3つ目のシーンは、物語の終盤、寄宿学校へ行くシャルロットにタカネさんがティーセットを贈るシーンである。

「あなたのお母様の、形見ですものね。持ってお行きなさい。」

*9

このシーンについては、タカネさんの立場で考えてみよう。まず、シャルロットへの餞別としてティーセットを渡したということは、このティーセットがシャルロットにとって大切なものであると認識していたはずである。しかしこの「野バラの柄のティーセット」は、シャルロットがシャーロットと初めて出会う直前に屋根裏の物置部屋で発見したような描写があり、以前から大切にしていたわけではないと思われる。つまり、タカネさんがこのティーセットを贈ろうと考えたということは、物置部屋でのおままごと、あるいはシャーロットとの会話の内容を知っていた可能性が高い。この場合、タカネさんの視点では、シャルロットは「母親が死んだ設定でままごとをしている娘」として映ることになる。当の母親本人からすれば、娘に嫌われたと感じてしまっても無理はないし、それが原因でシャルロットへの態度が厳しく、あるいは冷たくなってしまった部分もあったのではないか。しかし、シャルロットとのお茶会によって、彼女が母親を嫌っていたわけではないと知った。故にタカネさんは、それまで否定的に捉えていた「シャルロットのおままごと」の設定を肯定し、タカネさんの側からも歩み寄る姿勢を見せる意味で、あえてシャルロットに話を合わせるような言動を取った、とすれば、このシーンについても説明がつく。

シャーロットの正体と目的について

 ここまで、「シャルロットが、お伽噺のプリンセスに憧れ、彼女らと自身を同一視するために『実母亡き後やってきた義母に虐められている』と思い込もうとしていた」趣旨の仮説を論じてきた。ここまでの議論から、シャーロットの正体や目的(役割)について、以下のように推測できる。

  • シャーロットは、シャルロットのプリンセス願望がベースとなったイマジナリーフレンドである。シャルロットは、自身を「お伽噺に出てくるようなプリンセス」だと思い込もうとしていたが、その「プリンセスとしての自分」と「現実の自分」との間の齟齬が大きくなったことで同一人物として認識できなくなり、別の人格、つまりシャーロットとして表出した。
  • シャーロットの目的は、シャルロットが「お伽噺のプリンセス」ではないことを彼女に自覚させ、本当の彼女自身のこと、特に母親からの愛を思い出させることである。

 

プリンセスたる所以

 上記のような「シャーロットの正体」を仮定した場合、『鏡の中のシャーロット』はどんな物語だと解釈できるだろうか。

 まず、プリンセスという単語に注目しよう。「プリンセス」という言葉は、前述のとおり、原義としては(大雑把に言えば)「王族の娘」であるが、実際にはここから派生した意味合いでも使われる。つまり、いわゆるディズニープリンセスのような、ある種のお伽噺・物語におけるヒロイン(女性主人公)のことを意味する場合がある。この意味での"プリンセス"も、多くの場合は原義の「王族の娘」の立場にあるためこのように呼ばれる。しかし、この場合に重要となるのは血縁や立場ではなく、多くの子供たちの憧れとなるような、「強さ」や「賢さ」のような人間的な魅力を持った存在である点である。

 シャルロットはプリンセスに憧れていた。しかしどんなに憧れようとも、シンデレラや白雪姫になることはできない。そのような、「自分ではない、物語の主人公」そのものになりたい、という意味でのプリンセス願望は、成長するにつれ失われるべきである。それに固執することで身近な人からの愛すら見失ってしまうのであればなおさらである。「自分ではない自分」としてのシャーロットとの別れは、この意味での「プリンセス願望からの脱却」を意味していると取れる。徳川まつりの、「それが、大人になる、ということなのです。」*10というセリフも、このことを指しているのだろう。一方で、「誰かからの憧れとなるような、強くて賢い人間」としての、自分らしい"プリンセス"になりたいという願望は、否定されるべきものではない。この"プリンセス願望"は、シャルロットが成長しても彼女の中に残り続けるだろう。だからこそ、シャーロットはシャルロットと「ずっと一緒」なのである。

さようなら、シャーロット。あなたは私、私はあなた。

私たち、これからもお友達よ。ずっと、ずっとよ。

*11

 

おわりに

 本記事では、『鏡の中のシャーロット』は「プリンセス願望を持った少女シャルロットの物語」である、という仮説をベースにした解釈を論じてきた。また、今回は議論しなかったが、(本記事の解釈に限らず)「『鏡の中のシャーロット』とミリシタ内コミュ(お姫様講座)との対応」や「シャルロット及びシャーロットの役柄と、それを演じるアイドル徳川まつり・エミリーのキャラクター性の対比」といった部分についても考えてみると面白いかも知れない。

 相当に捻くれた見方の一つだったとは思うが、少しでも興味を持っていただけたなら幸いである。

*1:『鏡の中のシャーロット』/『前編』9:10~

*2:『鏡の中のシャーロット』/『後編』7:39~

*3:四条貴音の演じる役は"義母"となっているが、ここではその関係を疑う立場であり、混乱を避けるため便宜上タカネと呼称することにする

*4:彼女が幽霊である可能性はここでは無視する

*5:『鏡の中のシャーロット』/『前編』7:13~

*6:『鏡の中のシャーロット』/『前編』7:45~

*7:『鏡の中のシャーロット』/『前編』17:52~

*8:『鏡の中のシャーロット』/『後編』16:40~

*9:『鏡の中のシャーロット』/『後編』19:35~

*10:『鏡の中のシャーロット』/『エンディング』0:24~

*11:『鏡の中のシャーロット』/『後編』20:46~